イルミナティカードの予言 Ver381 良心の呵責編

カードの文章は、新約聖書・マルコによる福音書第8章36節より。 「たとえ全世界を手中に収めても、命に関して欠けていることがあれば、何の役に立とうか?造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいない者は、全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは死の瞬間に永遠の命を買い取ることはできないのだ。」

A brief attack of conscience 良心の呵責

良心の呵責」とは、

「悪事をしてしまった自分自身に対して、心を痛めること」です。

だけども人は地位、名誉、金から抜け出ることが出来ません。

「呵責」
木村宣彰(きむら せんしょう)(学長・教授 仏教学)

「良心の呵責」という言葉は、今や意味を持たないのであろうか。H・L・メンケン(1880-1956)は「良心とは、誰かが見ているかも知れないぞ、という心のささやきだ」と語っているが、昨今はその「心のささやき」が失われてしまったようである。

政治とカネの問題、理由なき行きずりの犯罪など、実に嘆かわしい事が多い。

「呵責」という語は、1604年に日本耶蘇会が刊行した『日葡(にっぽ)辞書』にも「Caxacu(カシャク)。セメ、セムル」とある。漢音の「カ・セキ」ではなく、「カ・シャク」と呉音で発音されている。仏教語は呉音で発音する。〈叱り責める〉〈責めさいなむ〉ことを意味する「呵責」は、元来、仏教語である。

仏教教団の戒律を定めた『四分律』には「呵責犍度(かしゃくけんど)」という一章がある。

そこには、闘争を好み、互いに罵倒し合い、刀剣で争う二人の比丘に「呵責」という罰が与えられたことを記録している。

そののち教団において罪を犯した者は、人々の面前で、呵り責められ、種々の権利を奪う罰が与えられるようになった。

これが「呵責」である。

罪を犯した比丘を更生させるための「治罪法」として行われる「呵責」は、他人から責められるが、他人から責められる前に、自責の念に駆られるのが「良心の呵責」である。

仏教の故国インドの独立の父と称されるマハトマ・ガンジー(1869-1948)は、60年前に今日の社会を見通したかのように、世を荒廃させる「七つの社会的大罪」を挙げている。

すなわち

「理念なき政治」

「労働なき富」

「良心なき快楽」

「人格なき学識」

「道徳なき商業」

「人間性なき科学」

「献身なき宗教」である。

社会に満ち溢れたこのような「大罪」の治罪法こそ喫緊の課題である。仏典の「呵責」は個人に対する治罪の法であるが、今や社会的大罪に対する「大呵責」が焦眉の急である。

『今昔物語』に「聖人、瞋恚(しんい)を以て弟子童子を呵責し」という一文がある。罪に対して怒りをもって呵責する聖人も、日本が直面する「社会的大罪」のあまりの非道さに愛想が尽きたのではないだろうか。