A brief attack of conscience 良心の呵責
「良心の呵責」とは、
「悪事をしてしまった自分自身に対して、心を痛めること」です。
だけども人は地位、名誉、金から抜け出ることが出来ません。
「呵責」
木村宣彰(きむら せんしょう)(学長・教授 仏教学)「良心の呵責」という言葉は、今や意味を持たないのであろうか。H・L・メンケン(1880-1956)は「良心とは、誰かが見ているかも知れないぞ、という心のささやきだ」と語っているが、昨今はその「心のささやき」が失われてしまったようである。
政治とカネの問題、理由なき行きずりの犯罪など、実に嘆かわしい事が多い。
「呵責」という語は、1604年に日本耶蘇会が刊行した『日葡(にっぽ)辞書』にも「Caxacu(カシャク)。セメ、セムル」とある。漢音の「カ・セキ」ではなく、「カ・シャク」と呉音で発音されている。仏教語は呉音で発音する。〈叱り責める〉〈責めさいなむ〉ことを意味する「呵責」は、元来、仏教語である。
仏教教団の戒律を定めた『四分律』には「呵責犍度(かしゃくけんど)」という一章がある。
そこには、闘争を好み、互いに罵倒し合い、刀剣で争う二人の比丘に「呵責」という罰が与えられたことを記録している。
そののち教団において罪を犯した者は、人々の面前で、呵り責められ、種々の権利を奪う罰が与えられるようになった。
これが「呵責」である。
罪を犯した比丘を更生させるための「治罪法」として行われる「呵責」は、他人から責められるが、他人から責められる前に、自責の念に駆られるのが「良心の呵責」である。
仏教の故国インドの独立の父と称されるマハトマ・ガンジー(1869-1948)は、60年前に今日の社会を見通したかのように、世を荒廃させる「七つの社会的大罪」を挙げている。
すなわち
「理念なき政治」
「労働なき富」
「良心なき快楽」
「人格なき学識」
「道徳なき商業」
「人間性なき科学」
「献身なき宗教」である。
社会に満ち溢れたこのような「大罪」の治罪法こそ喫緊の課題である。仏典の「呵責」は個人に対する治罪の法であるが、今や社会的大罪に対する「大呵責」が焦眉の急である。
『今昔物語』に「聖人、瞋恚(しんい)を以て弟子童子を呵責し」という一文がある。罪に対して怒りをもって呵責する聖人も、日本が直面する「社会的大罪」のあまりの非道さに愛想が尽きたのではないだろうか。