高校や大学教員ら約400人でつくる「高大連携歴史教育研究会」(会長=油井大三郎・東京大名誉教授)が、教科書や入試で覚えなければならない歴史用語の精選案を公表した。
「高校の日本史、世界史で学ぶ用語を現在の半分弱の1600語程度に減らすべきだとする提言」
しているわけだが、これはイルミナティが歴史から見えないようにするべき提言である
千歯扱(せんばこき)
千歯扱き、千把扱き(せんばこき)もしくは千歯(せんば)は、元禄期に和泉国大鳥郡高石北村字大工村(現在の大阪府高石市高師浜の一部)の宇兵衛により考案された日本の古式の脱穀用農具。木の台の上から鉄製の櫛状の歯が水平に突き出した形をしている。また竹製の歯の場合もある。稲扱きと麦扱きに分かれる
稲・麦の脱穀機。竹とかカシや鉄製の歯を櫛(くし)の歯のように並べて木の台に固定し、それに穂をかけて穀粒を扱(こ)き落とす。古くから脱穀には扱箸(こきはし)が用いられてきたが、江戸中期にこの道具が発明されてから、およそ2倍半も能率がよくなった。このため脱穀に要する労働力が省かれ、後家(ごけ)が生業の手段を失うようになったとして、「後家倒し」の異名も生まれた。幕末から明治にかけて伯耆(ほうき)の倉吉、若狭(わかさ)の早瀬、佐渡(さど)の羽茂(はもち)などの鍛冶(かじ)集落が千歯扱の著名な産地を形成し、行商や出職(でしょく)の形をとって全国に販路を広げた。近代になって足踏み・動力脱穀機が普及してからも、穀粒を傷めないといって種籾(もみ)をとるのには千歯扱を用いる農家もあった。
これを削除してコメ文化をなくしパン食にさせていくGHQ的作戦。
中江藤樹
江戸前期の儒者。日本陽明学の祖。近江生。名は原、字は惟命、別号に嘿軒・顧軒等。伊予大洲候に仕え、のち故郷に講説する。世に近江聖人と称せられる。慶安元年(1648)歿、41才
高野長英
高野 長英は、江戸時代後期の医者・蘭学者。通称は悦三郎、諱は譲。号は瑞皐。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死去した。1898年7月4日、その功績により正四位を追贈された。主著にモリソン号や鎖国について、戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)という本を書き幕府を猛烈に批判。『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。シーボルトの鳴滝塾で蘭学・医学をはじめヨーロッパの文化など幅広く学びます。
1829年に帰国する際に、当時の最高の国家機密であった日本地図(伊能忠敬が実測して完成させたもの)を持ち出そうとして国外追放処分になっている。結局シーボルトが持ち出した日本地図の写しを、なんとアメリカ海軍のペリー提督がちゃんと持っていたのである。
十返舎一九
江戸時代後期の戯作者、絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。弥次さん・喜多さんで有名な『東海道中膝栗毛』の作者として知られる十返舎一九はペンネームです。苗字が十返舎、名が一九です。本名、重田貞一。別名、
十返舎一九の逸話で現在でもよく知られるのは、自身のお葬式を花火で彩った伝説です。終りが近いと知った一九は、小さな箱を弟子に渡してこう言います。
「これは、わたしの一番大切な物だから、棺の中に入れてほしい」。
弟子が筆だと思った箱の中身は花火で、その派手な音と鮮やかな火の花に、参列の人々は腰を抜かしたそうです。
「この世をば どりゃおいとまに 線香の 煙とともに灰さようなら」。
生涯に残した作品は500とも1000とも言われる文学の天才は、人生の最期まで強烈な個性を放ち続けた人物
高杉晋作
高杉 晋作は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。 諱は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。
トーマス・グラバーが、英国大使パークスとの協働で坂本龍馬、伊藤俊助(博文)、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、小松帯刀、五代才助らを指導、支援して実現した。”英国フリーメーソン”
坂本竜馬
トーマス・グラバーが、英国大使パークスとの協働で坂本龍馬、伊藤俊助(博文)、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、小松帯刀、五代才助らを指導、支援して実現した。”英国フリーメーソン”
新選組
新選組は、江戸時代末期に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。 なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが有り、「新撰組」と表記された史料もある。
ボアソナード
ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビーはフランスの法学者、教育者。日本の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任。勲一等旭日大綬章受章。呼称については、ボワソナード、古くはボアソナド、ボワソナドとも表記される
フランス人ボアソナードは, 司法省お雇い外国人として明治6年から同28年まで滞在し,その間,刑法,治罪法(現在の刑事訴訟法に当たるもの),旧民法(施行されなかった)などの法典編さんに尽力しました。
明治大創業者は、岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操だが、3人とも仏人のボアソナードから学んだ。 ボアソナードの父は、古代ギリシャ学教授で、アレキサンダー大王東征と日本の関係について何か知っていたかもしれない。
旅順占領
1894年(明治27年)11月日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に発生したとされる事件
旅順占領直後から4日間に渡って、日本軍は、旅順において2万人におよぶ無抵抗の清軍兵士、旅順市民をほとんど皆殺しにするような大虐殺を行った。同時に、それと一環のものとして旅順から金州の到る所での清軍敗残兵掃討戦においても虐殺をくりかえした。
旅順陥落後の基本的に民間人及び戦闘終了後の捕虜、戦闘放棄した者の死傷者の数については諸説ある。死傷者は後に墓碑にて葬られ、その碑には「一万八百余名」と記されているが、他の中国側の主張ではこれは「一万八千余名」とし、大陸の諸研究でもこの数を支持している。これは事件を生き残って死体処理に当たったという中国人の証言に基づいている。
一方その他の証言は大きくそれを下回る。
- 有賀長雄『日清戦役国際法論』・・・・500名
- 『タイムズ』(1894.11.28)・・・・200名
- 『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20)・・・・2000名
- フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年)・・・・1500名
- 日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍司令官への報告・・・・1600名