教科書とイルミナティ(日本史編)中盤戦

高校や大学教員ら約400人でつくる「高大連携歴史教育研究会」(会長=油井大三郎・東京大名誉教授)が、教科書や入試で覚えなければならない歴史用語の精選案を公表した。

「高校の日本史、世界史で学ぶ用語を現在の半分弱の1600語程度に減らすべきだとする提言」

しているわけだが、これはイルミナティが歴史から見えないようにするべき提言である

藤原清衡

奥州藤原氏の祖

[生]天喜4(1056)
[没]大治3(1128).7.13. 平泉
平安時代末期の陸奥の豪族。父は経清。母は安倍頼時の娘。父が前九年の役に安倍氏に従って敗死したのち,母が清原武則に再嫁したため,武則のもとで育った。武則には清衡のほか,真衡,家衡とそれぞれ母を異にする子があり,のち清原氏に内紛を生じたが,後三年の役で源義家と結んだ清衡が勝利を収め,出羽,陸奥の押領使となって陸奥6郡を管領した。寛治5 (1091) 年初めて関白家に馬を献じ,以後関白家と庇護関係を結んだ。嘉保年間 (94~96) 居を江刺郡豊田から平泉に移し,富力にまかせて京都文化を導入,中尊寺を建立するなど栄華を誇った。遺体はミイラとなって中尊寺金色堂 (こんじきどう) に伝えられている。 (→平泉文化 )

世阿弥の母親は秦氏の出自であり、「猿楽」の祖は

秦氏の首長、秦河勝、東義秀樹氏の祖です。斯様に日本に多大な貢献をしながら秦一族は

平安時代を境に秦という名を消してしまいます。 生前はもちろん、死後に至っても徹底的に

自分達の出自や素性を隠して日本に溶け込んでいったのでしょう。

日本最大の支配階級として君臨してきた藤原氏、その出自も隠されています。

藤原氏と秦氏は婚姻関係を結んでおり、藤原氏を秦氏が経済的に支援し、

権力闘争や疫病で藤原氏が弱った時に、その一部が藤原氏に成り代わり、

両者は、ほとんど融合し皇室を婚姻により包囲していったと思われます

楠正成

楠木 正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に天皇を助けた。

皇居前の楠木正成の像

皇居前の楠木正成の像

安重根

安重根(あんじゅんぐん)

朝鮮の独立運動家で当時は初代韓国統監で伊藤博文を暗殺したのがこの安重根。

裁判の時に伊藤博文を暗殺した理由をこう言っています。

「伊藤が天皇を殺してから許せなかった」と。

安重根は、実は岩倉具視の手引により天皇を槍で突き殺したのです。

このことは、当時の天皇付き侍医が記録を残しています。

当然、天皇の子供も一緒に暗殺されています。

そうすると辻褄があうのです。

毛利が後醍醐天皇の子孫を匿って、山口県に連れてきていたのです。

後醍醐天皇の時に、南朝・北朝が、交互に皇位につくことが取り決められていたにも関わらず、足利の連中が嘘を言って北朝が武家の幕末最後まで続きましたが、
あれは天皇家とは全く関係のない血筋の人間で天皇家の血は一切入っていなかったのです。

だから、岩倉具視たちにとっては殺してもいい人物だっというわけです。

本当は真の天皇を連れて行って長州で元の南朝系に入れ替えるはずでした。

しかし失敗したのです。長州に南朝系の天皇が匿われているってことを知ったのです。

だから長州征伐が起こったのです。結局のところ入れ替えは行われました。

でも天皇が京都に居ると顔でバレるので東京に移した。

それ以後、明治天皇は南朝系が正しいということを発表しました。

おまけに楠木正成(くすのき まさしげ)の像を皇居の前に置きました。

あれは南朝の守り神という意味なのです。

後醍醐天皇は邦良親王が成人しても天皇の座を譲らず天皇家はお家騒動に突入してしまうのです。

そのゴタゴタの結果後醍醐天皇は京都を追われます。

しかし、後醍醐天皇は、天皇の証である「三種の神器」を持って、奈良の吉野でわれこそは正当な天皇家であると宣言します。

これが「南朝」のはじまりです。

この吉野朝初代の後醍醐天皇についている武将が楠木正成なのです。このことは、それまでの天皇家は「北朝」であることを意味しています。

そのため、楠木正成は、後醍醐天皇と一緒に鎌倉幕府を倒す片棒を担いだのではないかということで、とくに北条家──鎌倉幕府側から「大悪党」と呼ばれるようになるのです。北条家から見れば、敵方の武将は悪党であり、楠木正成がそのように思われても仕方がないでしょう。

上杉謙信 武田信玄

豊臣秀吉・武田信玄・上杉謙信もイエスズ会

梅松論

『梅松論』は、南北朝時代の軍記物語・歴史書、全2巻。『太平記』と双璧をなす軍記物語である。

南北朝時代は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇が吉野行宮に遷った1336年から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年までの、56年間をいう。

後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。この後、約60年間、2つの朝廷が並び立つという空前絶後の異常事態が続くのだが、東京書籍版の中学歴史教科書の記述はわずか4行である。

尊氏は京都に新たに天皇を立て、後醍醐天皇が吉野(奈良県)にのがれたので、2つの朝廷が生まれました。京都方を北朝、吉野方を南朝と呼び、この南北朝は全国の武士によびかけて戦いました。南北朝の動乱のつづいた約60年を南北朝時代といいます。

なぜ梅松論を教科書から消そうとしているかは、現代も表側と裏側の天皇がいるからというほかない。京都御所があるのはそのような理由なのではないだろうか、、、。

桶狭間の戦い

駿河を本拠とし、遠江、三河と西に支配地を広げていた今川義元は、 1560年(永禄3年)6月、尾張をも手中に収めるべく、 2万人とも4万5,000人とも言われる大軍を自ら率い、東海道を西進した。

一方、迎え撃つ尾張勢は、総勢およそ3,000人。 総大将は、うつけと呼ばれた若き織田信長。 兵力においては絶対的に不利な織田軍であったが、 桶狭間において見事今川軍を打ち破った。 まさに大番狂わせであり、ゆえに歴史に名を残すこととなったこの「桶狭間の戦い」であるが当時はまだ鉄砲(火縄銃)が珍しく、全国にもほとんど普及していませんでしたが、信長は少なくともその7年前から鉄砲の導入を始め、実戦での運用を試していました。

この戦いでも、雨が上がってから攻撃が開始されたことや、織田軍の突入時に煙が上がったなど、攻撃時に「鉄砲が使われた」可能性を思わせる記録が残っています。つまりイエスズ会が信長の裏にいたということになります。

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伴天連「バテレン」イエズス会

天草四郎時貞

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エリマキトカゲのような恰好、レプタリアン崇拝

天草 四郎、元和7年/元和9年? – 寛永15年2月28日は、江戸時代初期のキリシタン。島原の乱における一揆軍の最高指導者とされている。 本名は益田 四郎。諱は時貞。洗礼名は当初は「ジェロニモ」であったが、一時期表向きの棄教をしていたためか、島原の乱当時は「フランシスコ」に変わっていた。

島原の乱(しまばらのらん)とは、江戸時代初頭の1637年に起こった江戸幕府VSジーザス・クライスト&ヤハウェ及びその他キリシタンの全面戦争である。

イエズス会による布教が本格化した16世紀半ば以降、信徒が寺社を打ち壊したり、キリスト教を嫌う勢力が南蛮貿易で潤う町を焼き払ったりと、ポルトガル船と宣教師の向かう先々で血なまぐさい事件が続発した。

「ある日、天から舞い降りた鳩が四郎の手のひらで卵を産み落とした。
その卵を割ると中から聖書の一節が出てきた」と、あります。

四郎は習わぬのに文字を読み、キリシタンの講釈を行い、ま た海上を歩いて見せたという。
そして、次のような檄文が流布 されていた。
キリシタンになり申さぬ者は、日本国中の者ども、デウ ス様(神)より左の御足にてインヘルノ(地獄)へ、御踏 みこみなされ候間、その心得あるべく候。

押し寄せた一揆勢は、城下町で放火・略奪を行い、逃げ遅れ た女性を拉致した。
城下の寺院、神社を焼き払い、住持の首を 切り、指物にして、城の大手口に押し寄せた

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