イルミナティカードの予言 Ver139 スナイパー編 

狙撃手(そげきしゅ)とは、標的から長距離を隔てて狙撃銃などの銃で狙撃(精密射撃)を行う為に正規の訓練を受けて専門化された要員である。

狙撃手は、軍事組織・準軍事組織に所属する歩兵である者 (military sniper) と、警察などの法執行機関に所属する者 (police sniper) に大別される。

日本語では英語平読のスナイパー (sniper) とも呼ばれ、選抜射手等の精密射撃を行う各種要員を含めて広義に用いられている。

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JFK スナイパー

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ケネディ大統領の暗殺ですごいところは、それがどう考えても失敗するようなレベルではない、ということかも知れません。

もはや、アメリカ国民の過半数が撃ったのはオズワルドではない、と考えているそうだし、政府は沈黙を守っていますが、議会は1980年代だったかに、「陰謀は存在した」という調査報告を出しています。

銃撃に限って言っても、すごいです。

ウォーレン報告では、大統領の背後にあたる教科書ビルからリー・ハーベイ・オズワルドが、二次大戦でのイタリア軍の中古銃、マンリカ・カルカノで、去って行くところを常緑樹の葉っぱ越しに、5.6秒で3発発射し、しかも3発目で大統領の頭とコナリー知事の手を撃ち抜いたことになっています。

こんなこと今や誰も信じない、信じれるはずもない内容です。
FBIの再現実験で射撃の名手ができなかったことを、海兵隊で射撃下手で通っていたオズワルドにできるはずがない、というかゴルゴ13並です。

ケネディ事件の研究者は、狙撃犯はおそらく2~3チームはいた、と考えているようです。

それらによって現場を包囲して「交差射撃」で必勝を期しているのだというのです。

特に確定的?なのは、「グラシーノール」と呼ばれる右前方の草に覆われた丘です。

ここからは大統領車を低い弾道でしかも前から向かってくるところを狙えます。

実際、3発目、致命傷となった頭部への一撃はここから撃たれたと言われています。

これは、有名なザプルーダフィルムで、撃たれた大統領が後ろにのけぞり、ジャクリーヌ夫人が後部ボンネットに肉片を拾いに行くシーンからも、前方からの銃撃があったのは確かだし、多くの証人の発言もあります。

オズワルド?がいたとして、少なくとも前後からの挟み打ちはしていた訳です。

つまりは、狙撃手の腕に頼るのではなく、周到にキルゾーンを選定して、失敗などあり得ない必勝を期しているのです。

当時、多くの証人が銃声を7、8発、多い人では10発以上も聞いたと証言していますし、同乗のコナリー知事が「皆殺しにされる!」と叫んだことが知られています。

だから、万が一にも銃撃に失敗することはなかったのです。

仮に失敗したとしても、大統領は存命できたのか?疑問です。

実際には大統領はまずは地元のパークランド病院へ運ばれますが、その後、ひったくるようにバゼスタ海軍病院へ運ばれています。

ケネディ大統領暗殺は本当に信じられないくらいアメリカの暗黒の歴史なのです。

少なくとも、積極的にはCIAとダラス警察が、消極的にはFBIにシークレットサービス、その他多数の政府機関が関与したらしいことが言われています。

先の議会調査ではCIA要員の関与が認められています。

だから、「あれは暗殺事件と言うよりクーデターだ」、という表現も出てくるわけです。

今でも「ケネディ家の悲劇」は続いている、と言われます。

くだらない「ケネディとリンカーンの相似」みたいなのは別としても、末弟のエドワードはなんとか天寿を全うできたようですが、子どもたちは次々と不幸な死をとげてます。

これは、アメリカのWASPたちが、ケネディ家への恨みを忘れていないからだ、という人もいます。

ちなみに、WASPとは、ホワイト、アングロサクソン、プロテスタントですが、ケネディ家は一族のタータンチェックもあるケルト系アイルランド移民の出で、カソリック教徒です。

暗殺後のニュースを聞くと、大司教が「最後の秘術」を施しました、みたいな部分があります。

世界で一番有名なスナイパー シモ ヘイヘ

「シモ ヘイヘ」の画像検索結果シモ・ヘイヘ

Simo Häyhä[‘simɔ ‘hæy̯hæ], 1905年12月17日 – 2002年4月1日)は、フィンランドの軍人。

フィンランドとソビエト連邦の間で起こった冬戦争では、ソビエト赤軍から“白い死神”(белая смерть)と呼ばれ、恐れられた。

スナイパーとして史上最多の確認戦果542名射殺の記録を残している。愛称は「シムナ」。

フィンランド現地語の発音にあわせる場合、シモ・ハユハ、もしくはシモ・ハウハと表記するのが近い。

愛銃のモシンナガン小銃は途中、活躍の功績として支給された特別モデルに置き換わることとなった。これはフィンランドのサコ社が、彼の152cmという小柄な身長に合わせて銃身を切り詰めヘビーバレルにしたカスタムモデルである。

狙撃にスコープを用いず、アイアンサイトのみで行う(一番の理由はレンズの反射光で敵兵に発見されるのを嫌ったからという)。

にもかかわらず300m以内なら相手の頭部に必中。

呼吸を一定に保ち、ひたすら待つ。

そして敵の姿が目に入ると、息を吐きながら撃つ。

装填の際にはわずかでも弾丸の先端を傷つけてはならない。

そして引き金をひくためにむき出しの指先には常に神経を集中させるという。

シモ・ヘイヘを含むフィンランド軍わずか32名が迎え撃った相手は4000人のソビエト連邦軍
フィンランド軍は終戦までコッラー河付近の領土を守り抜き、この戦果は後に“コッラーの奇跡”と呼ばれた。

あるときヘイヘは400m離れた箇所から後方に走る敵を狙撃した。

敵に至るまでの弾丸の平均速度は秒速約490m、また重さ12ℊの長距離用完全被甲弾は約2m落下する。

加えて走る敵は秒速約4mで離れてゆく。

スピッツのライフリングは右回りで、偏流によって弾丸は右へ逸れ、風や空気抵抗の影響も受ける。引き金が引かれ、秒速700mで発射された弾丸は落下しつつ、右に逸れつつ、また空気抵抗によってわずかに左に押し戻されつつ進み、後方に移動してゆくソ連兵に命中する。

時間にして0.8秒。ソ連兵は被弾後に発射音を聞くことになる。

ヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、記録では200人以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した505人よりも多くの敵兵士を倒したと言われている。

1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも25人の赤軍兵士を殺害し、クリスマスの夜には通算殺害数が138人に達していたという。

重大な脅威であるヘイヘを排除するべく、赤軍は大砲や狙撃手を用いて攻撃を行った。にもかからず、防寒着の背中を砲弾の破片によって切り裂かれた他はヘイヘは負傷と無縁であった